【本日の業務】
・手帳、帳簿、日記
・スクラップ、スポかごNEWS発行
・後援会総会後処理
・J3参入決定取材、原稿
・甲突川RC


151117J3参入03_035
 鹿児島に初めてJのチームが誕生する歴史的な瞬間に立ち会うことができました。
 午後4時半頃に連絡があるということで、僕らも3時半過ぎには会場に足を運んで待機していました。会場には多くの報道陣が詰めかけていました。それだけ注目の高さがうかがえました。
 予定時刻の4時半を過ぎてもなかなか連絡がありません。電話が鳴るまでの瞬間を待つ間というのはこっちも緊張するもので何ともいえない雰囲気がありました。多少なりともここに至るまでの経緯は知っているので、関係者がこの瞬間をどれだけ待ちわびているかが分かるだけに、何ともいえない気持ちで歴史的瞬間を固唾をのんで見守っていました。
 午後5時9分、吉報が届きました。德重代表は感極まり、何度もコメントに詰まります。あらかじめ用意していたコメントを読み上げようとして「前身のクラブで…」と語ったところで、こらえきれなくなり、横にいた登尾GMにマイクを手渡す一幕もありました。
 鹿児島Uの「前身」は互いに宿命のライバルとしてしのぎを削ってきたヴォルカ鹿児島とFC鹿児島です。「ドラゴンボール」でいえば孫悟空とベジータのようなライバルが、様々な紆余曲折を経て「フュージョン」したことで、鹿児島最強のサッカーチームが出来上がり、誕生から2年でJへの扉を開きましたが、そこに至るまで、ヴォルカ、FC、両クラブだけでなく、「鹿児島からJ」への想いを馳せたたくさんの人たちがいたことを思って、德重代表は言葉を失ってしまったのでした。

 会見のあと、甲突川を走りながら、ふと僕自身の鹿児島のプロサッカーとの関わりを振り返ってみました。
 「鹿児島にもJ」を意識したのは2000年、川淵会長に初めて会って言葉を交わしたことがきっかけです。その年は、京セラや城山観光陸上部の休廃部に接し、「企業スポーツの限界」「地域に根差すスポーツとは何か?」について考えるようになりました。
 03年、ヴォルカに鹿児島出身のJリーガー前田浩二さんが帰ってきて、鹿児島からJを目指すという機運が大いに高まりました。鹿児島新報の記者として6年目を迎えていた僕は、ようやく仕事の方向性をみつけ、地に足をつけて仕事をしようと決意した頃です。
 05年以降は、鹿児島からJを目指すプロジェクトがとん挫し、前田さんも退団して、長い低迷期に入りました。04年に鹿児島新報の廃刊を受けて独立し、僕は自分で鹿児島のスポーツを発信する活動を始めましたが、しっかりした基盤を確立できず、好かったり悪かったりを繰り返して「迷走」していた時期です。
 11年、FC鹿児島が九州リーグに参入。強力なライバルの登場で、ヴォルカ、FCが互いにしのぎを削って、再び「鹿児島からJ」の機運が高まった頃、僕は「スポーツかごしま」の仕事に奄美新聞の仕事が加わり、ようやく基盤らしきものができてきました。
 14年、両者が統合して誕生した鹿児島Uが初めてJFLを戦った年、僕は人生の伴侶と結婚しました。そして鹿児島から初のJが誕生しようとするのと軌を一にして、わが子が今まさに誕生しようとしています。

 そんな風に考えると、普段意識しないようで、深いところで鹿児島のサッカーともリンクしていたことに感慨深いものがありました。バスケットのレノヴァ鹿児島と同じく、鹿児島Uも僕にとってかけがえのないチームと言えるような気がしました。
 大事なのはこれからです。鹿児島UがJ2、J1を目指す道は「茨の道」と德重代表は言いました。これまで以上に厳しいことが待ち受けているでしょう。僕も子育てという未知の分野に飛び込みます。彼らが「プロ」の世界に飛び込んでいくなら、僕もスポーツを発信するプロとして技を磨き、その活動を組織化して今まで以上に充実していくことを決意しました。
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